はじめに。
以下は「映画 みんなの物語」で、ポケモンに対して感じたことを綴っています。
あくまで個人的な感想なので、誰かの意見を否定するものではなく、ディベートする気もさらさらありません。
ただ少し長くなりますので、暇つぶしにでもして頂けると幸いです。
また、文書そのままと掲載するとあまりにも見づらかったのでなるべく改行を多用しています。ご了承ください。
1.「キミに決めた!」からのポケモン
2.疑似現実のポケットモンスター
3.ポケットモンスターといういきもの
1.「キミに決めた!」からのポケモン
映画ポケットモンスターは毎年上映されていますが、多くのみなさまが仰るように「キミに決めた!」からガラッとスタイルが変わりました。
これも多くの方が仰られていることですが、今までの映画の大筋は「世界の危機だ! 伝説のポケモンだ! 行け、ピカチュウ!」「世界は救われた、やったね!」だったと思います。
明確な悪人がいて、ポケモンを悪いことに使って、世界が大変なことになって、サトシ達が世界を救う話ですね。
では、「キミに決めた!」はどうか。
サトシが旅に出て、色々あって苦しんだり楽しんだり、仲間が出来たり別れたりしながら、明確な悪役や強大な伝説ポケモンと対峙するのではなく、ただただ少年サトシの冒険を追っているだけの物語でした。
クロスを悪役と見ることは出来るかもしれませんが、彼は「信念の違うトレーナー、ライバル的存在」であると考えます。行いはどうあれ、思考が千差万別なのは現実でもそうでありますので。
しかしこの時点でもあくまで主役は「サトシとピカチュウ」でした。
「みんなの物語」
これも多くの方が仰られているように、本当に、「みんな」でしたね。
嘘つきのカガチ、イマドキの女子高生リサ、気弱なトリト、偏屈なヒスイ。
サトシとピカチュウは実力も絆も強いけど、「積極的な性格により、知らない町のことでも首を突っ込んでいった見知らぬ少年A」のようなポジションでした。なんというかもう、伝説ポケモンに近い気がします。あるいは、伝説となったレッドさん。
話は戻しまして、この登場人物達はみんな、何かしら抱えていますよね。
見た人達は、誰かしら一人には共感したのではないかと思います。
そしてその共感が、自分もポケットモンスターの世界の一人に錯覚する構成だったのではないかと思いました。
今までのようにサトシ達の活躍を映像の向こうから見ていただけではなく、あの世界の人達のひとりに立ったような感覚。
ポケットモンスターが「疑似現実」に近付いてきたように思いました。
2.疑似現実のポケットモンスター
ポケットモンスターの世界は虚構です。
ゲームボーイで発売されてから、ずっと画面の向こうの世界の物語です。
虚構の「ゆめとぼうけんのせかい」であり、隔たれた世界でした。
ですが今、ポケモンGOはARシステムにより現実世界と合成して「そこにいる」ポケモンを見ることができるようになりましたし、「みんなの物語」でもあの中のひとりとして「飛び込んだ」ように思えました。
それは画面が近くなったことだけではなく、「キミに決めた!」から現れ出した、ポケモンの息吹だと思います。
息吹。生きること。そして死ぬこと。
ポケモンも生きていて、いつかは死んでしまう存在だということ。
この世のいきものと同じだということ。
いきものと手を取り合って生きている世界とは即ち、こちらの世界、即ちポケモンを操作している側の世界と同じということ。
向こうはポケモンと一緒に生きている。
こちらはいぬやねこ、うさぎといった動物たちと生きている。
ポケモンはそういった、トモダチと錯覚しうる動物たちと生きている世界だという認識が強まり、拍車を掛けるようにポケモンGOにより身近になってきたことで、更に現実味を帯びたのではないかと思います。
3.ポケットモンスターといういきもの
まず、ポケットモンスターといういきものを考えると、実に人間に都合の良い存在だと感じます。
第一に、ほぼ全てのポケモンは人間へ敵意を持っていない。これが一番大きいと思います。
敵意はほとんど人為的なものであり、大体がはじめから友好的であったり、話していればわかってくれることが多く、覆らない殺意や隔たりがありません。理解したつもりで理解し合えず、喰い殺されることもありません。(あくまで現時点(2019/01/30)までの作品では)
そもそも、ポケモンの技でトレーナーが殺されることがありません。
ポケモンは科学すら超越した強力な技や、怪力・爪・牙を持っているにも拘わらずです。トレーナーがポケモンの技で死んだという事例も、今の所ありません。
乱暴に言えば、ポケモンはトレーナーを殺せない存在とも思えます。
これはまるで決して刃向かわない従順な、しかし親しいともだちとなるべくして存在しているモノと言っても過言ではないかと思います。
逆を言えば、だからこそトレーナー側も疑わずに付き合っていける、言葉を掛けられる存在だとも言えますが。
そしてその点に関する補填は以下の通りです。
1.ポジティブな言葉は理解し合うが、ネガティブな感情はすれ違うことが多い
2.そもそも言葉は通じているようで、通じていない。だが、通じている。
以上二点は、より都合の良い動物であることの証のように思っています。
そして、これらはいぬやねこと居ても感じることであるので、ポケモンという存在が「隣人」ではなく「アニマルパートナー」と感じる要因とも取れます。
いぬやねこに対しても、何を怒っているのか、何を哀しんでいるのかわからない時があります。一生懸命理解しようとしても、決して理解出来ません。
彼らは話が出来ませんし、どのくらいものを考えているのかすらそもそもわかりませんから。
その点ポケモンは話が出来なくとも、人の助けをしたり、同じように行動していたります。ですがそれも個体や種族によって様々で、いうならば、同じ「動物」というカテゴリーに属していても、ゴリラなどの霊長目はある程度の知能はあるように思うが、いぬは子供くらいしか知能が無いのでは無いか、といった種様々への評価に過ぎませんし、何より基本的に彼らは言葉を持ちません。
他のキャラクターものと違い、ポケモンはほぼ喋りません。これは大事な事だと思います。
話してしまえば「アニマルパートナー」ではなく、「対等」になってしまうからです。
人間、トレーナーと同じ扱いをしなければならなくなると、途端に彼らへ感じる責任感は重くなってしまいます。
映画での伝説のポケモン達は話せるのが基本になってきていますが、それは普通のポケモン達との差別化の強化であり、神格化であると考えます。
ボールで捕まえられてしまうゲームの中や、「キミに決めた!」「みんなの物語」では伝説ポケモンといえど喋りませんでしたが、これもひとつの「いきもの感」だと思いました。
みんなの物語でのルギアは最後の最後まで、リサが呼ぶまで出てきませんでしたが、それは一種の神の現れでもあり、ただのポケモンであることの現れでもあるように思えます。
儀式を行わなければ現れてくれないという神という見方と、単に行動結果に起因して現れただけで、町を救おうという思考はなかったというあくまで「いっぴきのポケモン=いきものである」という見方。よく考えれば、双方どちらでも取れるというのはすごいですね。
そしていぬやねこと暮らしていれば、「理解はできなくとも互いに安心できる存在」と、少なくとも自分はなります。ポケモンという存在も、それに近いのではないでしょうか。
更にポケモンがいきものに近くなった要因として、映画「キミに決めた!」から明確にされだした「ポケモンの死」であると思います。
今まで赤・緑でもシオンタウンにはお墓があり、ポケモンが死んでいる描写はあります。
漫画ポケモンスペシャルでも、コダックのゾンビが居ました。
ですが、映画「キミに決めた!」では、主人を守っての凍死。
映画「みんなの物語」では、主人のためにと主人の制止を振り切っての焼死。
更にアニメサンムーンでは、明確ではないものの、あまりにもわかりやすいムーランドの老衰による衰弱死。
回りくどくない、リアルな死の数々で、今まで漠然に「人間の都合の良いいきもの」=「死という概念がない」と思いがちだったポケモンに死を与え、いきものとしての定義を強めた、そう思いました。
話は少し前後しますが、ポケモンの考えもどこか飼われているいぬ・ねこに近いように思います。自分はいぬとばかり暮らしているので、どうしてもいぬの解釈になってしまいますが、彼らは本当に単純で、純粋で、ばかげていて、一生懸命で、すばらしいいきものです。
ポケモンも正にそれであり、「みんなの物語」で、足を引きずってでも走ろうとするイーブイに、リサがに「どうしてそんなに頑張れるの」と言っていました。
名シーンのひとつのような扱いで、CMでもよく見かけましたが、何故ひとの心を打つシーンたり得るのか、ポケモンもいぬやねこと同じなら、とてもよく理解出来るシーンでした。
彼らの思考は至極単純で、そんな「ちいさきもの」が愚かに懸命に単純にがんばる姿に、人間という、数多雑念が入り込んで動けなくなるがんじがらめないきものは感動する。何故なら、そういった純粋なものを忘れていたことに気付かされ、そういったもっとも簡単なことを身をもって教えてくれるからではないでしょうか。
その最たる存在が、凍死したレントラーであり、ヒスイのブルーであると思います。
主人・あるいは友人のために、ただただそれだけの為にいのちなんぞ投げ打って死んでいったポケモン達。彼らの思考も、いぬが泣いているひとの頬を舐める行動とまったく同じだと思っています。
自分たちが死ぬことも、死んだ後のことも、なにも考えていない純粋なかたまり。
一緒に楽しい時間を過ごす為に、笑っていて欲しいから行動した、ただそれだけのこと。
そこに複雑な感情は一切ありませんし、死ぬことを哀しいとも思っていないはずです。
アニメのムーランドの死もかなりリアルだったと思います。
これも多くの人が仰っていますが、サトシの「あれ、軽い」というセリフが本当にきついし、辛い。
その後のニャビーの行動も、死というものを理解しているのかいないのかわからないが、居なくなった者へ遠吠えをするという、現実のけものそのものに見受けました。
このように、知能は人間に劣るが、人間のポジティブな感情は理解する忠実で純粋な、真の意味でのパートナーがポケモンといういきものと、映画「みんなの物語」を通じて感じました。
ですが、忘れてはならないのがやはりポケモンは人間の都合の良いモノである感覚。
それは以下の点でそう考えます。
1.どんな重さでも、大きさでも、モンスターボールに入れられる
2.一度捕まえた主人には盲目的に従うポケモンが多い
3.病気、老いといった概念から無縁である
4.怪我は大体一瞬にしてポケモンセンターで治る
5.ポケモンに掛かる費用はほぼ無い
まず、1.ですが、これは例えば新幹線など長距離旅行する際のケージ・トイレシーツといった下準備から手荷物料金などの煩わしさからの解放であり、世話をしたくなくなった時にもボールに入れておけば一切の世話もなく手間もなく、ただ「飼っている」という事実は継続する手間のないペット感覚。
都合の良いときにボールから出してかわいがれば、はじめは拗ねていても大体許してくれる印象があります。それこそポケットピカチュウのように。
2.は、例外もいますが特にヒトカゲのように、ひどい扱いをされていても盲目的に主人としてついてまわるポケモンも多く見受けられます。
邪険にしていても少し撫でれば満足してくれる、最高の愛玩動物です。
3.は上記で「死」について先に話してしまった為「死という概念は希薄である」と書きざるを得ませんが、例え死んでも彼らの死はあっさりしていて、現実的な苦しみはあまりありません。
ムーランドも老衰でしたが空咳をしていて、現実であれば肺の病気、また胃腸も弱っていたでしょう。現実ならば点滴を施さなければならないでしょうし、その間の排泄物の処理もありますし、身体も拭いてあげなければなりません。
そういった手間が一切今の所ありません。
少し触れましたが、排泄関係の世話がないのも大きいですね。
そして、4.、5.に続きますが、治せないものは死に直結する衰弱であり、治るものはだいたいラッキーの卵かポケモンセンターで完治。その費用に至っては掛からないものであり、共にある・あるいは飼っているものでありながらその継続費用はほぼノーコストに近いです。
これだけ出揃うと、いぬ・ねこのようであり、その実手間もコストも掛からず、牙を剥いたり嫌われる心配が一切無い、実に都合の良い完璧ないきものだと思えてしまいます。
ただ、都合の良い、とネガティブな表現で書きましたが、これはこれでポジティブないきものだと自分は思います。
何故ならポケモンはあくまで、ヴァーチャルないきものだからです。
現実のいきものではないからです。
現実のいきものは愛おしく、そして辛いものですが、その辛さを取っ払った理想のいきものと、そのいきものとただ生きることが当然である世界、それがポケットモンスターの世界であり、ポケモンとトレーナーが見せてくれる世界だと思っています。
ですので、ヴァーチャルでもその辛さを限りなく見せられたら自分たちは疲れてしまうでしょうし、現実の辛さからの逃げ場所がなくなってしまいます。
ポケモンを見ていると、違う存在達が当然のように手を取り合って、当然のようにみんなで暮らしています。それはある種の理想郷です。
長い間、漠然とポケットモンスターが好きでした。
何故こんなにも好きなのか、何故「みんなの物語」が良かったのか、その答えがようやく出た気がしました。
ポケモンは理想なのだと、理想の世界なのだと、悪い人も良い人もいるけれど、ポケモンといういきものと人間が普通に暮らしているだけの画面の向こうのもう一つの世界なのだと、解釈しました。
そういった理想郷を見ながら、老いも、介護も、死も、敵意も、殺意もあるこの世界で生きていき、それでもそういう理想がある限り、きっと誰もが仲良くなろうと思えばそういう世界だっていつかあると思わせてくれるポケットモンスター。
だから自分はこれからもきっと、ポケットモンスターが大好きです。
長くなりましたが、以上がポケットモンスター映画「みんなの物語」に見たポケモンといういきものでした。
ポケモンを生み出した全ての人達、ポケモンを愛している全ての人達、そしてそんな風に大事で、大好きだったいぬたち、いきものたち、そしてこれからも大好きないぬたち、みんな、誰よりも一番なキミへ。
ありがとうございます。
ありがとうございました。